小村寿太郎

ハーバード大学に残るPhoto   著書 ”小村寿太郎若き日の肖像” 企画発行 小村寿太郎侯奉賛会  発行所 鉱脈社 より

過日小村寿太郎が日本最初の官費でのハーバート留学生である、と記載しましたところこのページの読者より「いや二回目だ」との指摘を受けました。確かに小村寿太郎が留学したのが明治8年ですが、遡ること明治6年に官費生:250人、私費生:123人計373人が欧米に留学しています。しかしながらこの留学制度の目的は「将来高等諸学校の教授を担当すべき人材の養成」であったにも拘らず、一回目の大半は従前の各藩から選抜された人々であって、その選択について必ずしも適当ではなく、国費の濫費であるとさえみられたため、その年の12月に制度が中止され全員帰国させられています。(明治6年文部省第一報)

その後明治8年5月「文部省貸費留学生規則」が制定され、先の「文部省留学生監督章程」が改正され、それによって留学生の選抜は慎重に行なわれ、その管理・監督を厳正化。この規則公布後文部省は留学志願者を募ったが、資格があまりに厳格なため応募者もなく、そこで小村も在籍していた東京開成学校生徒中から選抜し、同年七月にアメリカに9人、フランスに1人、ドイツに1人、を派遣した。彼らは12歳から22歳の優秀な青年で、それぞれ法学・化学・工学等を専攻したとあります。

 

 

この経過を見ると、「日本のリーダー育成を目的とした留学」の視点からは明らかに目的を達成した二回目が際立ってしまいます。

それと時の明治政府の数か月で373人の留学生を帰国させた判断力・実行力に驚かされます。勇気ある朝令暮改でしょうか。

略歴

(本文の主な用語には WIKIMEDIAの解説参照機能があります。)

1855年(安政2年)916日、

日向国飫肥藩(現在の宮崎県日南市のほぼ全域および宮崎市南部)の下級藩士・小村寛平と梅子の長男として生まれる。

1870明治3年(1870

貢進生として大学南校(東京大学の前身)に入学

1文部省海外留学生に選ばれてハーバード大学ロー・スクールへ留学し、法律を学んだ。

帰国後司法省入省

  大審院判事

1884

外務省へ転出、陸奥宗光に認められる、

1893

清国代理公使

1894-1895年 

日清戦争

未事変の後、三浦梧楼に代わって駐韓弁理公使

ウェーバー覚書在朝鮮ロシア総領事カール・ヴェーバーと小村

外務次官、 

1898(明治31年)  

駐米公使

駐露公使 歴任。

1900(明治33年)義和団の乱では、講和会議全権として事後処理。

1901(明治34年)1次桂内閣の外務大臣に就任。

1902(明治35年)日英同盟を積極的に主張して締結に持ち込む。

その功により男爵陞爵。

1904(明治37年)日露戦争 当時国家予算の6倍もの戦費調達を高

橋是清、金子健太郎を指揮し実現

1905(明治38年)ポーツマス条約の締結。日本側全権大使として、未

だ無傷の大軍を保有するロシアを相手に、「決裂も辞さず」の気迫で交渉に

臨みポーツマス条約を調印に持ち込む。

・アメリカの鉄道王・ハリマン満洲における鉄道の共同経営を提案(桂

・ハリマン協定)を当時の欧米列強の動きをその洞察力で判断、首相や元

老の反対者を説得し破棄に持ち込む、

日露講和条約締結の功により伯爵に陞爵。

1908(明治41年)成立の2次桂内閣の外務大臣に再任

幕末以来の不平等条約を解消するための条約改正の交渉。

1911(明治44年)

日米通商航海条約を調印し関税自主権の回復。

日露協約の締結

韓国併合の功により侯爵に陞爵

桂内閣総辞職と同時に政界引退(8月30日)

同年11月26日、結核養生先の葉山の簡素な別荘にて逝去、枕元に読み

かけの5か国の新聞を残して。

 

享年56歳